嫌嫌韓厨の奇妙な論理6

■『嫌韓流』は、日本で生きるしかなかった在日コリアンの苦悩を隠蔽する。
・日立就職差別裁判・・・朴鐘碩氏はなぜ日本名を名乗ったか?

http://www.han.org/a/takenoshita_kaihou10.html
http://d.hatena.ne.jp/claw/20060309 CLick for Anti War

「日本で生きるしかなかった在日コリアンってどういう人たちなんだろうね?」「まあ、人によって理由はさまざまだから単純にはいえない。ただし、日本で生きるしかなかったと言い切るのは勉強不足だろう。むしろ、在日コリアンが日本に残留する理由を隠避しているのは嫌嫌韓厨なんだけどね。」
朝鮮戦争勃発とか南北両方とも国交の無い時期が長く続いたけど、北朝鮮への帰国事業もあったわけだしね。」「ていうか、そもそも、朝鮮半島に戻りたい人は、終戦直後にほとんど帰国していたんだよ。
むしろ、日本内地が徹底的に焦土と化していたのとは違って、当時の朝鮮半島は若干の例外はあっても、戦災は免れていたから、当時の日本はありふれたアジアの農業国に転落し、朝鮮の方が発展性があると考える人が多かったんだ。」
「では、現在の在日コリアンはなんな訳?」「商売上の都合など、自由意志で日本に残留したか、もしくは朝鮮戦争が始まる前に、政争などのゴタゴタでテロが横行したために戦後になってから日本に密入国した人なんだ。
それから、日本共産党に当時、朝鮮人党員が多かったという事情があって、日本の共産主義者が革命運動を有利にすすめるために利用したという側面もある。」
「まあ、南朝鮮にガチガチの右翼ファシスト政権ができたのだから、こんな国には帰りたくないと思うようになった人が多かったのは容易に想像できるね。」

戦後の大きな朝鮮人の日本移入の最初のものとしては、1948年の済州島四・三事件に起因したものがある。これが原因で日本人からの「密航者が多い」との主張に結びつけられることもある。

1948年に入ると、金日成は2月に朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主人民共和国の成立を通告した。当初から武力による強制統一を考えていた金は、南部のパルチザンに蜂起するよう呼びかけていた。対して南部は、労働党を抜きにして単独選挙を行うことを決断した。これは国土の分断を決定的にしかねない決定であり、選挙反対派が運動を開始したが、済州島では南朝鮮労働党に率いられた島民が「人民遊撃隊」を組織し、4月3日に武装蜂起した。

蜂起は治安部隊によって短期間で撃滅されると、ゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は遊撃隊員の処刑と、同調島民の粛清を行った。これは8月13日の大韓民国成立後も韓国軍によって継続して行われ、1950年に金日成朝鮮民主主義人民共和国が侵攻(朝鮮戦争)すると、いよいよ労働党狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。

日本による韓国併合以来、複雑な歴史背景によって本国の待遇が悪かった島民は、新天地を求めて日本へ移住あるいは出稼ぎに行き、併合初期に日本へ最初に来た20万人ほどの朝鮮出身者の大半は済州島出身であった。敗戦による「開放」によって、そのほとんどが帰国したが、この事件によって済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減した。

コリアン世界の旅 (講談社+α文庫)

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「朝鮮の地域差別は、日本人にはちょっとわからないと思うくらいひどいんですよ。
『陸地』でも慶尚道の人間は全羅道の人間を差別するけれど、それは『人間として』差別するんでね。
慶尚道の人間も全羅道の人間も、済州島の人間を人間扱いしなかった。
牛や豚の同類として差別したんです。
済州島ではむかし人糞をえさにして豚を飼っていたから、僕らは『くそブタ』と呼ばれていたんですよ」

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060312
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060304
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225