ホテル・ルワンダ 対中朝戦争開戦はいつか?2

  • オリンピック以前

「まあ、基本的には中国で内戦が起きるにしても、オリンピック以後になるというのが妥当なところだろうね。」
「そうともいえないんだな。日本では幻の東京オリンピックというのがあって、1940年に開催されるはずだったのが、日中事変が解決できずに、返上するハメになった。あくまでもオリンピックというのは都市開催なので国の問題は関係ないはずなんだけど、平和の祭典を紛争当事国がやるのはいかにもマズイという判断だろう。なにしろ、あのヒトラーでさえ、ベルリンオリンピックの成功を優先したという事実がある。そういう意味で、台湾がオリンピック開催前のタイミングでどさくさにまぎれて独立宣言する可能性もないではない。」
「まあ、独立宣言するなら、絶好のタイミングといえなくもないだろうな〜。」
「いまの台湾は民主選挙を実施しているから、中国でのオリンピック成功をきっかけにして、和解ムードが台頭して国民党が圧勝して第三次国共合作が実現してしまった場合、非常にマズイ立場に追い込まれることになる。」
「中国がこのまま経済的にも政治的にも台湾に対して優位に立つことになると、台湾の防衛体制を根本的に見直す必要があるな。」
「いままでは、中国は政治的な問題と経済的な問題があり、国民党も合作については取り合わなかったのだが、このまま台湾でジリ貧になるよりはと、共産党との合作について真剣に検討する可能性がある。」

2005年に国民党主席の連戦らが北京を訪問。中国共産党総書記・中華人民共和国主席胡錦濤と会談した。両党トップの会談は1945年以来60年ぶりで、台湾独立反対という姿勢で一致した。

「何の根拠も無く、オリンピックまでは大丈夫だろうと皆が思い込んでいるけど、だからこそ、このタイミングを好機として紛争が起こる可能性があるということか。」

「ちなみに、モスクワオリンピック直前にアフガン侵攻がおこっているよね。」

1978年
4月27日 - 人民民主党のクーデターにより、アフガニスタン共和国大統領ムハンマド・ダーウード(ザーヒル・シャー元国王の従兄弟)が殺害される。釈放された人民民主党書記長ヌール・ムハンマド・タラキーは、4月30日に革命評議会議長に選出され、大統領、首相として政権を握り、アフガニスタン民主共和国の樹立を宣言した。タラキーと並ぶ人民民主党の幹部ハーフィズッラー・アミーンとバーブラーク・カールマルはともに首相代理に任命された。
12月5日 - 民主共和国がソビエト連邦との友好条約に調印。
1979年12月 - ソビエト連邦アフガニスタン侵攻が発生した。
1980年1月 - アメリカのカーター大統領が大会ボイコットの方針をアメリカオリンピック委員会に伝え、他の西側諸国にも同調を求めた。
1980年2月 - 日本政府はアメリカに従い大会ボイコットの方針を固めた。一方、日本オリンピック委員会JOC)は大会参加への道を模索した。
1980年4月 - 日本政府の最終方針としてボイコットがJOCに伝えられた。多くの選手はJOC本部で大会参加を訴えた。
1980年5月24日 - JOC総会の投票(29対13)でボイコットが最終的に決定された。
1980年6月11日 - JOC常任委員会モスクワ五輪日本選手団(幻のメンバー)を承認し、同時に大会への不参加を確認する。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060312
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060304
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225

「まあ、毛沢東主義が軍事優先だったのは中国統一のために必要だったことで、当時とは時代が違うし、文革批判もやったことだし、今の中国には当てはまらないのではないか?」「確かに、中国は訒小平が最高実力者になってから、文化大革命は誤りであったことを公式に認め、以後、改革開放路線へと転換したね。」「じゃあ、やっぱり、今の中国は毛沢東主義とは違うじゃないか。」


「ところがね、その訒小平国家主席になったことがないんだよ。どうして、彼が中国の最高実力者なんだ?」「国家主席が中国最高のポストではないのか?」「国家主席というのは、一種の名誉職なんだよ。」


「ということは、人民解放軍が最高権力なのか?」「似たようなものだけど、ちょっと違ってて、訒小平党中央軍事委員会主席になったことはあるので、軍事を掌握していることが中国の最高実力者であることは確かだ。次に、江沢民体制を見てみよう。」

1989年11月 - 中共13期5中全会で、党中央軍事委員会主席に選出。
1990年3月 - 第7期全国人民代表大会第3回会議で、国家中央軍事委員会主席に選出。
1993年3月 - 第8期全人代第1回会議で、国家主席に選出。
2002年11月 - 中共16期1中全会で、党総書記を退任(後任は胡錦濤)。
2003年3月 - 第10期全人代第1回会議で、国家主席を退任(後任、同)。
2004年9月19日 - 中共16期4中全会で、党中央軍事委員会主席を辞任(後任、同)

党中央軍事委員会主席であった期間が国家主席であった時よりも長いじゃないか。」「党中央軍事委員会主席の地位は最後まで手放さなかったんだよ。」「事実上はこれが中国最高のポストということか。」

北朝鮮はもっと露骨で、金日成から金正日に権力継承を行うときに、それまで存在しなかった国防委員長というポストを新設して、金正日が最高のポストである国防委員長に就任したと発表した。」
「なんで、そんな面倒なことをしたのだろう。」「一説によると、金正日国家主席にするなという金日成の遺言があったとも言われる。」「それもまたいい加減な話しだが、金日成金正日を後継者にしたくなかったのかな。」
金日成はスーツ姿、金正日は人民服姿で登場することが多かったから、金日成がの方が現実志向で金正日の方が古いタイプの政治家なのかも知れないな。」「金日成は自分の息子だからさすがに公には言えないが、金正日をあまり良く思っていなかったのかもしれないね。」

「日本の会社でもほとんどそうだが、社長が自分のバカ息子に会社を譲るとしたら、自分が生きているうちにバカ息子を社長にするだろ?」「金日成は自分の生きているうちに金正日を後継者に指名しなかったのだから、国家最高の指導者としての器だとは思ってなかったのかもしれないね〜。」