ホテル・ルワンダ 台湾の大虐殺

嫌韓厨も嫌・嫌韓厨も朝鮮人虐殺がどうしたとか、通州事件がどうしたといってるけど、台湾の228事件はどうでもいいんだろうかね〜。」「まあ、台湾の地位は日本がポツダム宣言を受諾することによって、日本が台湾を放棄することは決定していたたものの、サンフランシスコ講和条約が発効するまでは日本の領土だったわけだからね。」
「そういう意味では、228事件は当時、蒋介石の国民党の軍隊に占領されていた日本の領土で起こった民間人虐殺事件なんだよ。」

僕が例として朝鮮人虐殺を挙げたのは、もちろん日本の観客に虐殺が他人事だと思って欲しくないからで、それには日本で起こった例を挙げないと意味ないでしょ?
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225 ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記

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「中国は共産主義をやめて資本主義になるから問題ないという人は多数いる。ジム・ロジャースはその一人だ。」「ジムとボクのどちらが正しいのかはいずれわかるから良いとして、中国の悲劇はソ連と違って指導者を人民自らが選べたことによる。」
「人民が指導者を選べるのは良いことじゃないか。」「毛沢東共産党国共内戦蒋介石の国民党に勝利したのは、人民が毛沢東を支持したからなんだ。もし、蒋介石だったらどうなっていたかを経験したのが台湾なんだよ。中国人は金儲けが好きだし、いずれ中国の時代になるから、アメリカ追随をやめて中国と仲良くなった方がいいという人がいるが、それは、中国人というのがどれだけ残忍な連中だか知らないからなんだよ。」

1947年2月27日、台北市でヤミタバコを販売していた老婆を国民党政府官憲(密売取締員)が発見。公道でその老婆を殴打するという惨事が起こった。これにかねてから不満があった市民の怒りが爆発。翌28日以降、それに対する抗議行動が台湾全島に拡がり、もともと台湾に住んでいた本省人は、戦後台湾に移住して強権を恣(ほしいまま)にする外省人と、外省人によって成り立っていた国民党政府に対して抗議活動・襲撃等を起こした。このとき、台湾人がラジオ放送局をジャック。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」との放送を行った。


当初、国民党政府は本省人側にたいして対話姿勢を示していたが、実際のところそれは時間稼ぎに過ぎず、翌月、多人数の援軍が大陸から到着してからは、国民党政府による大弾圧が始まった。日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄され、国民党軍が一般市民にも無差別的な発砲を行っていたとする証言は多数ある。約3万人が殺害・処刑されたといわれ、死者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。


このとき発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、国民党政府による、いわゆる白色テロや強権による暴力支配は永らく続いた。国民党が戒厳令を解除し、民主化がはじまった1987年の後も、戒厳令は解除されたとはいえ、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。民主化が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正して、言論の自由が認められてからのことである。

戒厳令が40年間も続いていたのか。」「これほどまでに長期間にわたる戒厳令というのは、世界的にも例が無い。日本でも平時の非常事態において戒厳令を布告したことはあるが、いずれも短期間で解除されている。」

1905年9月6日 日比谷焼打事件(ポーツマス条約反対暴動)
1923年9月2日 関東大震災
1936年2月27日 二・二六事件

「ところで、どうして蒋介石はこれほどの大弾圧をしたのかな。」「ようするに、台湾人は中国人から見ると日本化された野蛮人だったんだよ。むしろ、蒋介石に比べたら毛沢東の方が親日だとさえ言える位だ。」「虐殺の規模、事態の深刻さからいっても228事件の方がルワンダで起きたことを他人事にしないためには適切だと言えるね。」
アメリカ当局は、蒋介石の国民党がどうしようもなく残忍で腐敗していることに驚いて、かなり早い段階で中国国民党を見捨てて中国共産党を支持することを決めていたんだ。」
「なるほど、それが米中接近の原因になるわけだな。」「ところが、日本は資本主義国のアメリカが中国共産党を支持することになるなんて予想もしてなかったんだ。」「油断なら無い連中だね〜。」「それにしても、社会党の浅沼委員長はどうして死ななければならなかったんだと思うし、彼を刺殺した右翼青年の人生はなんなんだったと思うよ。」

1959年、訪中した浅沼は、中国で「アメリカ帝国主義は日中両人民の敵」と発言し、国内外に大きな波紋をおよぼした。浅沼がこのように踏み出した発言をした背景には、かつて戦争に協力して、中国の人々に塗炭の苦しみを与えたという深い自責の念があったと言われている。しかし、この発言は右翼の強い反発を買った。

1960年 総選挙の前哨戦として、自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した浅沼は、壇上で右翼少年・山口二矢に腹部を刺され、波乱の生涯を終えた(浅沼稲次郎暗殺事件)。
山口二矢少年鑑別所で首吊り自殺。

遺書
汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀ニ千六百二十年十月十二日  山口二矢

「次に、浅沼委員長が中国で行った講演から、社会党の中国政策を抜き出してみよう。」

(1)二つの中国の存在を認めるが如き一切の行動をやめ中華人民共和国との国交の回復を実現する
(2)台湾問題は中国の内政問題であり、これをめぐる国際緊張は関係諸国のあいだで平和的に解決する
(3)中国を対象とするNEATOのごとき軍事体制には参加しない 
(4)日本国内に核兵器を持ちこまない 
(5)国連その他の機構をつうじ中華人民共和国の国連代表権を支持する 
(6)長崎における国旗引きおろし事件にたいしては陳謝の意を表し今後中華人民共和国の国旗の尊厳を保障するため万全の措置を講ずる 
(7)友好と平和とを基礎にする人的、文化的、技術的、経済的交流を拡大し国交正常化を妨害することなくこれに積極的支持と協力をあたえる。

「なんだこれ、現在の自民党の対中政策と何らかわらないじゃないか。」「浅沼も山口も死ぬ必要は無かったんだよ。」