パレスチナ問題
オイルショックの発端となったパレスチナ問題を国連決議との関係で検証します。
1900年 イギリスはオスマン・トルコからのアラブ独立を約束→「マクマホン書簡」
1917年 イギリスはユダヤの「民族的郷土」を建国することに賛成→「バルフォア宣言」
元々、イギリスがオスマントルコを解体するため、アラブ人とユダヤ人の両方にパレスチナを与えることを約束したことが発端であり、アラブ人は最初からユダヤ人入植に反対していたわけではないことに注意。
1947年4月 イギリスはアラブ人とユダヤ人との約束を履行できず、パレスチナ問題を国際連合に委ねる.
1947年11月 ユダヤ人の所有地は6%に過ぎないのに、ユダヤ人国家に約6割の土地を与えるパレスチナ分割勧告案を可決→アラブ人側に一方的に不利な内容であったため、アラブ連盟はアラブ解放軍を組織。
1948年5月 イスラエル建国を宣言→アラブ義勇軍はイスラエルに対して宣戦布告。
1948年12月 国連総会にてパレスチナ難民の故郷帰還権を承認する決議194Ⅱ号→イスラエル側は決議受諾を拒否。
1967年11月 国連安保理決議第242号占領地からのイスラエルの撤退とイスラエルの生存権承認。
1968年3月 安保理全会一致でイスラエル非難決議
1969年7月 国連緊急安保理,イスラエル非難決議案を採択
1973年10月 第4次中東戦争
アラブ石油輸出国機構石油戦略の発動→オイルショック
国連はイスラエルに有利な米ソ共同停戦案(国連安保理決議338号)を採択
→イスラエル軍は国連決議を無視して戦闘続行
1974年11月 国連はパレスチナ人の民族自決権,パレスチナ国家の樹立の権利を認める。
アラファト議長がオリーブの枝をかざし総会演説.
アラファト演説のさわり
革命家とテロリストの違いは,何のために戦っているかという点にあります.正しい目的を持って,自分自身の土地を侵入者,入植者,植民地主義者から解放し,自由にしようとしているものを,決してテロリストと呼ぶことはできません.でなければ,イギリス植民地主義者からの解放のために戦ったアメリカ人は,テロリストになります.ヨーロッパでのナチスに対するレジスタンスはテロリズムになります.そしてこの会議場におられる数多くの人々もテロリストということになるでしょう.
1982年 第6次中東戦争
国連が停戦案を提示.PLOとレバノンは受諾の意向を示すが,イスラエルは拒否.
6月 国連安保理,イスラエル非難決議を提出.アメリカのレーガン政権は拒否権を行使
8月 国連安保理,イスラエル非難決議を採択.
→イスラエル制裁決議案についてはアメリカが拒否権
1988年12月 アラファト議長,国連総会で演説.テロ作戦を放棄しイスラエルの生存権を承認.
安保理決議 242号及び338号を受諾すると表明.
1991年 国連安保理,イスラエルのパレスチナ人追放を非難する決議を採択.
1993年 イスラエルとPLOが,パレスチナの暫定自治に関する協定に調印.
パレスチナ自治に関する原則宣言が発表。
原則宣言の骨子
(1)イスラエルとパレスチナは相互の存在を承認する.(2)イスラエル軍は67年に占領した領土から段階的に撤退する.(3)選挙によってパレスチナ自治政府を樹立する.(4)その後,パレスチナの最終的地位に関する交渉を行う.
2001年 イスラエル軍が占領地より撤退しないため、ハマスが自爆テロを始める。
出典http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/neareast/palestine.htm